「平穏死」を考える ~自分の最期はどうありたいか~
10月28日に世田谷の芦花ホームの石飛幸三医師の「平穏死」について、特定非営利活動法人ACT・人とまちづくりが主催した講演会でお話を聞きました。石飛先生ご自身もすでに80歳を超えていらっしゃいますが、優しい語り口の中にもドキッとするようなお話がたくさん飛び出しました。
医療の進化によって昔はできなかった延命が可能となりましたが、高齢者を点滴や経管栄養によって寿命を延ばすことが果たしてその人のためになることなのかを考えさせられました。医療費ばかり嵩んで、人の幸せとは比例していない現状を本気で考えなくてはならないと感じました。
私は常々、「口から物が食べられなくなって胃ろうや管につながれてまで延命したくはないから、その時に少しでも生きながらえてほしいと思わなくていいように今から親孝行しておくべし!」と娘たちに話しています。石飛先生のお話も老衰という自然の摂理を認識して医療は本来、人のための科学であることに戻り、最終章における医療の役割、看護、介護の使命を認識する時だと。施設は肺炎製造工場で病院は胃ろう製造工場だといいます。最後の3か月で一生の医療費の約1/2を使っているという推計もあるようで驚きです。施設で誤嚥性肺炎を起こし、入院するとほとんどの方が胃ろうをつけて帰ってくる。胃ろうと1500キロカロリーという高齢者には多すぎる栄養点滴投与で肺炎を誘発し、苦痛を与えるだけだと。その状況を変えてきたのが芦花ホームの常勤医としての石飛先生です。
老衰死とは食べないから死ぬのではなく、死ぬのだから食べないのだと。多くても600キロカロリーで食べたいものを食べたい量だけで1年半生きた方の事例。家族も施設も入所者の老いの実態を見ていなかった。誰もが残り少ない親の人生の幸せを望んでいるはずなのに。幸せに坂を下っていくことを支援することが大事。食べたくない・食べないのは断食ではないし、眠ることは自然な麻酔で、体の中を整理して余計なものを捨てて身を軽くして天に昇って逝くことこそが「平穏死」だと。
”人の逝き方がその時代の文化を示す“と。だとすれば、現在は悪しき文化と言わざるを得ないかもしれない。老衰は疾患ではないから治せないのだということを誰もが受け止め、介護はその人の心を支える仕事だと。芦花ホームは石飛先生が来てからというもの介護のあり方が変わったようです。石飛先生の朝いちばんの仕事は100人の入所者とあいさつして回ることだそうです。「人」をみる医療、10月25日に保健福祉委員会視察で訪問した広島県尾道市の公立みつぎ総合病院でも学びました。「死に方」は「生き方」の続きで、死を覚悟して初めてどう生きるか腹がすわる。そんな立派な生き方ができるかどうかはわかりませんが、元気なうちに自分の最期はどうありたいかを考え、家族や周りの友人と話し合っておくことが必要かと思いつつ、まずは自分の親の時にどう振舞えるか考える方が先かもしれません。
“「自然」とはそもそも「自ら然り(おのずからしかり)」しっかり生きて、そして最期に自然に従ってこれでよかったと思いたいものです“という石飛先生のメッセージをかみしめながら…