リーダーの一言が生死を分けた避難壕 沖縄訪問記③

2016年4月24日 20時03分 | カテゴリー: 活動報告

”シムクガマ“の入り口にある「救命洞窟之碑」

”シムクガマ“の入り口にある「救命洞窟之碑」

今回の沖縄訪問で特に衝撃的だったのが“チビチリガマ”。沖縄戦で集団自決のあった避難壕だとわかっての訪問だったが、実際にその前に立った時、何とも言えない心のざわつきを感じた。1945年4月1・2日と上陸した米軍が迫りくる中、生きて捕まることを恥と教育されたこの時代、捕まれば何をされるかわからないと自ら命を絶った人々がいたという事実。中国戦線を経験した元軍人は日本軍が中国人を虐殺したように自分たちも殺されるに違いないと言ったことで壕内はパニックに。「殺さないから出てきなさい!」という米軍の言葉が信じられず、戦車に機関銃、手榴弾の米軍に竹槍で応戦した人もいた。まるで大人と子どもの戦いごとく、なぜ何の罪もない人々が地獄に道連れにされなければならなかったのか。同じ母親にも自決を選択する者としない者、その葛藤たるや想像できるなどと口にはできない。私にも年頃の娘がいる。もし、その時代、この場にいたらどうしていただろうと考えたら、苦しくて、悲しくて、そして怒りが増幅してしまった。約140人いた避難民の内83人が亡くなる結果に。亡くなった多くは18歳以下の子どもたちだったらしい。

この”チビチリガマ”での出来事は遺族の方々が自ら語り出すまでそっとしておこうという地域の人々の思いから、38年間封印されてきたが、その後は遺族会が結成され慰霊祭も行われるようになり、私たちが訪れた3日前にも行われたということだった。ガマの縁に平和の像が慰霊碑として反戦彫刻家金城實氏の手によって建立されたが、完成直後に心無い者によって壊され、今あるのは再建されたものだと聞いた。ただ手を合わせ鎮魂を願い、戦争は絶対にダメと心に刻んだ。

一方で、ひとりも死者を出さなかった“シムクガマ”にも行ってみた。こちらは1,000人ほどの避難民がいたかなり大きな洞窟で、中には川も流れている。同じように米軍が迫りくる中、”チビチリガマ“とは真逆な結果となったのはなぜか。ハワイ帰りの英語が話せる男性が米軍と交渉し、抵抗しなければ殺さない約束を取り付けた。しかし、彼らは避難民から「非国民」と言われ信用されていない存在だったため、中には自決を口にする人もいたようだ。しかし、長い間の壕生活だったため、どうせ殺されるなら太陽を見てから殺されよう!という男性の言葉にそれもそうだと呼応し外に出て、結果、無事収容されたのだそう。”シムクガマ“の入り口には「救命洞窟之碑」があり、ハワイ帰りの二人によって1000人の命が救われたことが刻まれている。リーダーの一言が生死を分けたこの皮肉な結果をどう受け止めてよいのか複雑な思いでその場を後にした。